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アンギアーリの戦いとは
レオナルドダヴィンチ と銘を打ってますが、1504年にレオナルドダヴィンチがヴェッキオ宮殿に描いたとされる『アンギアーリの戦い』の絵画は発見されていません。
様々な理由で公開できず絵が消失されたと記録されています。それを実際に見ていた当時の画家達が摸倣した作品を広島で見て来ました。
レオナルドダヴィンチ の細部にまで描く技
当時のダヴィンチのメモやスケッチから察するに、構図や色、細かい表情や筋肉の動きまで計算され尽くしています。
1つの絵を仕上げるまでにこれだけの労力と熱意を込めているのは、驚きと、感動が湧き上がってきました。
ダヴィンチによる手のスケッチ
感性が素晴らしい
現代はコンピューターを使いパソコンやスマホで簡単に絵が描けたり誰でも写真撮影、作曲ができますが、全てがアナログな時代で当時の芸術家は様々な思考を巡らせ作品を昇華させる感性は現代人では叶わないのでは!?
画家は重要だった
写真もない時代だからこそ、画家という職業はデザイン設計や様々な記録を残す重要な仕事で、この時代に多くの偉大な芸術家を輩出した要因なんだと感じました。
終わりに
普段、美術館に行かない方は、ぜひ美術館に足を運んで芸術家との対話を楽しんでみてはどうでしょうか。
『アンギアーリの戦い』については下記の参照をご覧下さい。
1504年、レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェ共和国からの依頼を受け、ヴェッキオ宮殿に『アンギアーリの戦い』を描き始めた。同時に、ダ・ヴィンチの壁画と反対側の壁には、ミケランジェロが『カスチーナの戦い』の制作を手がけていた。同じプロジェクトを同時期に両者が手がけたのは、この時だけである。ミケランジェロは下描きが終わった時に(1505年)、ユリウス2世にローマへ呼び戻され、未完のまま終わった。『アンギアーリの戦い』はダ・ヴィンチ最大の大作であり、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に描いた『最後の晩餐』の苦い経験から、テンペラやフレスコではなく油絵で壁画に挑戦した。そのため、実験的な手法を試みた。しかしダ・ヴィンチは、恐らくロウを混ぜた厚い下塗りなど試行錯誤したが、表面の絵の具が流れ落ち出した。急いで乾かしたものの絵画の下半分しか救うことができず、上部は色が混じり合ってしまい、ダ・ヴィンチはこの壁画を諦めることとなった。
Wikipedia 参照
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芸術の秋を愉しまれたようですね。